ロシア : チェチェン問題

Tuesday, Sep 14, 2004 - 01:06 +09:00

自分で書いといてなんですが、物凄い文量です。覚悟してください。

特徴

チェチェン共和国は、ロシア連邦の南部連邦管区にある共和国
地理的にはカスピ海と黒海に挟まれた、北カフカスになります

地図で見るとイランやトルコに近く、ロシアの西南端辺り。カスピ海の周辺は、西海岸を中心として莫大な石油資源が埋まっており、パイプラインによる巨額の通過料収入を狙って各国の駆け引きが激しい場所です。その埋蔵量は中東を上回るかもしれないとか。ロシアがチェチェン共和国の分離独立を認めないのも、この利権を狙って、という説もあります。

さらにカフカス地方は、日本より少し広い程度のエリアに50を超える民族が居住しており、地球上で最も民族的に多様な地域であるとされています。山がちな地形である事にも一因があるのでしょう。

まだまだややこしくなります。古くから侵略と抑圧に晒された地域で、オスマン帝国、ロシア帝国、ソビエト連邦、ロシア共和国、ロシア連邦と、戦いと反乱/支配と抵抗が絶えない地域でもあります。

旧ソ連によって、意図的に民族分布と違う形で引かれた国境線... 俗に言う、「スターリンの負の遺産」が強く出る面もあります。国境に基づいて独立すると、民族問題が起こるのです。

歴史的背景 (中世~スターリン)

一言で言うと、大国に抑圧され続けた歴史です。

ローマ帝国の衰退に合わせて1448年に事実上の独立。以後、ロシア正教会のイデオロギーで武装するロシア帝国の侵略に耐える為に少数民族には別のイデオロギーが必要となり、以前からキリスト教化されていた地域を除けば、大多数の国がイスラム教を民族解放のイデオロギーとせざるを得なくなる。
これがロシア南部にイスラームが多い理由の一つ。

イデオロギーというのは、一般的に「主義主張」を表す語です。この場合は、強大な外敵に協力して抵抗するために民衆を纏める"理念"が必要だったということになります。ただ結局ロシア帝国に併合されてしまい、徹底した植民地化政策(ロシア化政策)が実行されます。

その後ロシア革命が勃発し、ソビエト政権が成立。

民族自決を認めた連邦制を支持する「建国の父」レーニンに対し、自治化案を取ったのが後継のスターリン。これは「大ロシア主義」と呼ばれ、各共和国を「自治共和国」としてロシア共和国に吸収する案のことです。

レーニンは、グルジア問題(南カフカス地方)における大ロシア主義を強く戒めますが、スターリンは強い抵抗を排してこれを強行。これを知ったレーニンは激怒し、スターリン解任を求める遺言を書いて謝罪か絶縁かを迫るものの... 脳梗塞による廃人生活の後、死去。ほどなくしてスターリンが、ソビエト連邦の独裁者となります。

彼によって活動家が大量に粛清されたことは、有名です

その後、北カフカスはナチス・ドイツの占領下に置かれます。地域住民は戦争当初、ドイツ軍を「解放軍」と考えていましたが、「ドイツ人民の生存圏の獲得」を名目とする行動が住民感情を逆撫でして、住民たちをパルチザン(武装ゲリラ)に変えてしまいます。

大祖国戦争(独ソ戦)後は再びソ連に戻りますが、スターリンは大祖国戦争中にドイツに協力したという口実でチェチェン人、イングーシ人、約50万人を一夜にして強制移住させます。これにより、「チェチェン・イングーシ自治共和国」は消滅。スターリン死去後、「名誉回復」で復活したものの既に強制移住で国民の3/4が死亡しています。

この間に「チェチェン・イングーシ自治共和国」の領土が北オセアチア自治共和国に編入されたため、後の領土紛争の原因ともなります。

チェチェン人とイングーシ人は民族的には同一ですが、ロシア帝国が北カフカスを併合した際、抵抗したグループをチェチェン人、抵抗しなかったグループを、イングーシ人と呼称したのが始まりです。

歴史的背景 (ソ連崩壊~現代)

そして、ゴルバチョフによるペレストロイカが始まります。

ソビエト共産党書記長がゴルバチョフ。ソ連を構成する国の一つである、ロシア共和国の大統領がエリツィン。ゴルバチョフはソ連の共産党独裁を廃し、初代大統領となります。ロシアとソ連を別に考えると理解しやすいです。

ゴルバチョフはスターリン主義と決別し、
民族自決をうたったレーニン主義を再確認する

まずロシア共和国内の自治共和国が「主権独立宣言」をした場合、自治共和国から「自治」の二文字を外してソ連邦を構成する共和国の一つとして認証する法律に署名する。続いて、ソ連邦から離脱できる3つの条件を規定。これらの法律に従い、ロシア共和国を含む15の共和国が主権独立を宣言。チェチェンも同様に、法律に従って適切に権利を行使しました。

ここで注意すべきなのは、「チェチェン・イングーシ自治共和国」はソ連の直轄地であり、ロシア共和国に帰属したことは一度も無い、ということ。チェチェンが宣言したのはソ連からの独立であって、ロシア共和国からの独立ではない。

ゴルバチョフが目指していたのは、スターリン政権下より極めて中央集権的な従来のソ連を一時解体し、カフカスの少数民族たちの主権も認めた共和国の集合体... 「主権ソ連邦」として再生させる、というもの。この試みは成功しかけたものの、結果的に噴出した民族問題によってクーデターが勃発。クーデターは失敗に終わりましたが、ゴルバチョフの権威は失墜し、ここからロシア共和国(エリツィン)側に実権が移ります。

この間に「チェチェン・イングーシ共和国」と、ロシア中央政権の双方が
「イングーシ共和国」の分離独立を承認。ほどなくしてソ連が崩壊... ロシア共和国も崩壊するが、21の共和国のうち19の共和国が署名し、連邦を構成することでロシア連邦として存続することになる。

この時('92年3月)参加しなかったのは、チェチェン共和国と、タタールスタン共和国だけ。タタールスタン共和国はほどなくしてロシア連邦に加盟したため、未加盟国はチェチェンのみになります。

ここに至って、現在のロシアの枠組みが成立します。ロシア連邦は21の共和国を含む連邦制の共和国ですが、各々の共和国には連邦からの分離独立権が認められておらず、連邦政府の強いコントロール化に置かれまます。そのため、゛共和国゛とは言っても、実質的には民族自治区と変わらないのです。

チェチェン人は長い植民地支配から独立心が旺盛であり、特にロシアに対しては、ソ連時代に弾圧を受けた事もあって反露感情がとても強い。独立を求めるのは当然なのですが、独立宣言はしたものの、ロシア政府は今も許していません。

第一次チェチェン紛争

'94年12月。チェチェン共和国の分離独立を阻止するため、
ロシア軍による大規模な軍事介入が行われます。
これが第一次チェチェン紛争です。

チェチェンでは'91年に、ドゥダエフ将軍(後に大統領に就任)らがクーデターによって共産党政権を打倒し、事実上の独立状態になっていました。ロシア連邦は、この内戦に介入する形でロシア軍を派遣します。

'95年、首都グロズヌイが陥落。ロシア軍は圧倒的な軍事力にも関わらず、ゲリラの執拗な攻撃によって山岳地帯を制圧できませんでした。しかし連邦軍が広域に渡って支配権を回復した事でひとまず満足し、一方的に休戦を宣言。撤退を始めます。

それで終わる筈もなく、'96年にロシア軍のミサイルによってドゥダエフ大統領は戦死。同年8月にグロズヌイをチェチェン軍が奪還し、停戦合意がなされます。

'97年、国際的に承認された民主的な選挙によってアスラン・マスハドフ(現在の独立派大統領)が大統領に選出されます。5月、エリツィンとマスハドフは400年に渡る戦争の終結を宣言します。

この紛争では10万人が死亡し、22万人が難民として隣接する3共和国に逃亡しました。開戦にあたってロシア側の主張は「憲法秩序の回復」ですが、エリツィンの「大統領再選のためのプロバガンダ」という見方もあります。

第二次チェチェン紛争

第二次チェチェン紛争は'99年に勃発し、現在も継続中

チェチェンの一部イスラム原理主義勢力が「ロシアの支配から解放する」として隣国タゲスタンに越境侵入し、ロシア軍と交戦したのが始まりなのですが、直接的な原因としては、その後にロシア連邦内で頻発した爆破テロによるところが大きい。

ロシア側は、これをチェチェン武装勢力によるテロだと断定し、犯人がチェチェンに逃げ込んだとして侵攻を開始。しかし現在に至るまで証拠は提出されてはいない。当時首相であったプーチンの「人気取り」という見方もあり、事実、プーチンは2代大統領に就任しています。

チェチェンの野戦司令官であるバサーエフはロシアの情報機関やエリツィン関係者と繋がりがあるともされ、開戦当時の状況はまだよく判っていないそうです。

しかし、惨状は目に余ります。

強姦、略奪、拷問は日常的に横行し、一般市民の不当拘束と引き渡しの代金請求は日常茶飯事と化しています。これは、普通の基準では「誘拐」とされる完全な犯罪行為です。

ロシア側の絨毯爆撃は都市や村落を破壊し、市民と武装ゲリラの区別はできず、もとよりそのつもりすら無いようです。家族や友人、恋人が死んでゆくのは日常で、職に就けたとしてもすぐに破壊や略奪に遭い、勉強する暇などある筈もない。

テロを肯定するつもりはありませんが、これではテロに走らないほうが無理と言うものです。チェチェン人の自爆テロには女性が多く関わっていますが、これは夫を失った妻による仇討ちだそうで、しかも組織化しているそうです。

一例として、ロシア連邦軍大佐のユーリ・ブダノフという人物の裁判があります。罪状は強姦と絞殺。しかし精神異常で無罪になってます。19歳の少女を家族の元から拘束し、部下と共に輪姦した後、絞殺。 軍の主張は「彼女は狙撃兵だった」

現在はブダーノフ大佐の懲役刑は確定していますが、
軍はこの判決に強く抵抗しています

胸糞悪い話です。
このケースが犯罪として確定してしまうと、類似の事件が続くチェチェンでは逮捕者が続出することになる、というのが理由ですからね。イラクでは米兵のイラク人に対する私刑が問題になってますが、それが可愛く思えるくらいの惨状です。これだけの犯罪が国ぐるみで行われていることに憤りを禁じえません。

ベスラン学校占拠事件は、酷い事件でした。モスクワで頻発するテロ事件も看過できません。それでも、テロが起きるには理由があると言う事だけは今回の確認ではっきり判ったことです。

最後に

小国の意見は力で抑え込める、という大国の傲慢が元凶な気がします。戦争を外交手段として見ることと、実際に人を殺すことの認識に酷い差があるように感じます。

努力すれば報われる社会では、テロは起きません。例えば看護士を目指している若者は、テロに走りません。家族を殺され、職を奪われ、他にする事が無くなって絶望に囚われた人間。そういう人が爆弾を巻いて喫茶店や大使館に突っ込んでいきます。

大国は戦争に勝つことはできても、テロやゲリラ活動を完全に抑え込む事はできません。少なくとも、ロシアがやっていることは全て裏目に出ています。年表を何度も眺めて、よく判りました。

テロ活動が表面化したのは、戦争を始めてからです。強硬策をとり、殺せば殺すほどテロが悪化しているのは明らか。なるほど、彼らは日々ますます追い詰められてます。だからこそ、テロ以外の選択肢が消えていくのです。

テロに屈する訳にはいけません。しかし、もっともっと殺すことは、下策でしかありません。他に方法はある筈でしょう? 学校占拠事件を受けて、ロシア政府はテロ対策として、より中央集権的なシステムに移行するそうです。

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