北欧神話 / バルドルの死
北欧神話において最も優雅で、最も慈悲深く、
最も美しく、最も賢く、誰からも愛された光輝なる神バルドル
彼の死は多大な損失をもたらし、世界はラグナロクへと転がり落ちていく
これは、その死の顛末を描いたエピソード
バルドルの夢
バルドルはうめいていた
不吉な夢に魘され、自らの叫びで目覚めた
バルドルの夢を聞いて不安にかられた神々と女神たちは
皆で集まり、議論したが、誰一人として解明することはできなかった
父であるオーディンは、夢の解明のために自ら究明の旅に出る
行き着いたニブルヘイムでは、
死者たちが溢れ、黄金の腕輪と飾りで輝き、蜜酒が用意されていた
死した予言者を呼び覚まし、問い質したオーディンは、
それがバルドルを歓待する準備だと知る
バルドルの死
バルドルの生命が危険にさらされていることを知った神々たちは
死に至るあらゆる方法を考え、不慮の死の原因となる名前を挙げていく
そして母親のフリッグが世界に存在するあらゆるものに誓いを立てさせた
曰く、「バルドルを傷つけない」と
火も、水も、鉄やあらゆる金属も、石と鉱物すら誓った
大地も、樹木も、病気も、全ての動物や蛇たちもそうした
あらゆる被造物が誓いを立て、フリッグが皆の頼みをやり遂げたとき、
ようやく神々は安心することができた
誰かが言った
「我々は、それを試してみねばならん」
一人が試しに、軽く小石を投げつけてみた
誓いを立てた小石は、ぶつかっても力を出すことをひかえたので
バルドルはその小石がぶつかったことにすら気付かなかった
それを見た神々は笑い、すべての存在は生を喜んだ
始めはちょっとした気晴らしだった
石を投げても、矢を投げかけても、剣で切りかけても
どんな攻撃もバルドルを害することはなく、次第に大胆になっていき
居合わせた全ての者は、この新しい競技に夢中になっていった
皆がバルドルに怪我をさせられないと、嬉しがっていたのだ
ただしロキだけは別だった
彼は何も起こらない平和より、何かが起きる混沌こそを望む
災難と苦しみが何よりの楽しみだった彼にとって、
その光景は面白いものではなかった
始めは気分が悪い程度だったのだが、毎日見せられるとなると違ってくる
恨みは日に日に大きくなり、やがて心の多くを占めるようになる
彼は競技に加わることはしなかったけれど、
ただ黙殺することはできなかった
ある日の午後、壁にもたれてぼんやり見物していたロキの心に、
ある一つの考えが浮かんだ
その後の行動は迅速だった
彼は年老いた女に化けてフリッグの館を訪れ、
皆だけでなくバルドル自身も競技を楽しんでいること、
あらゆるものからバルドルを傷つけない誓いを取ったこと、
そしてヴァルハラの西に生えている小さなヤドリギだけは
若すぎたので誓いを取っていないと聞き出すことに成功する
ロキはヴァルハラの西の小さな森へ向かい、
そこで樫の木に生えたヤドリギの小枝を見つけた
その実は仄かに輝き、淡い瞳を連想させる
葉は黄緑、茎や小さな枝々は緑色。それは薄明かりの中では奇妙で、
白昼の光の中で静止している様は、どこかこの世ならぬものに見えた
彼はヤドリギを引き抜き、森を去った
道を急ぐ間にも前腕ほどの長さの枝を選んで皮を剥ぎ、
一端を尖らせて磨き上げるると、グラズヘイムに入っていく
グラズヘイムは、神々の館
未だ競技に熱中する神々を一瞥すると、
多くの神がバルドルに矢を投げかけて楽しんでいる
ロキはそれを見ると堪らなくなった
あたりを見回すと、バルドルの兄弟である盲目のホズを見つけた
いつものように皆から少し離れてゆっくりと手探りしながら動いていた
誰にも気に留められないその姿は、とても痛ましいものだ
ロキは言う
「なぜ君は仲間に入らないの?」
ホズは答える
「僕には彼が何処にいるかわからない。皆と楽しむことはできないんだ」
「君を無視するなんて良くないね。君は彼の兄弟だろう?」
「苛立ちや恨みからは、何も生まれないよ」
ホズの言葉は、轟くような笑い声に掻き消された
「どうしたのかな?」
「投げ矢が巧く当たったようだね。さあ君の番だよ、ホズ」
「でも、僕は武器を持っていないよ?」
「それならこの小枝を使うといい。君も彼に敬意を表さないとね。皆の様に」
ロキは尖らせたヤドリギをホズに握らせて、言う
「彼が何処に立っているのか、僕が教えてあげるよ。
君の後ろに立ち、手を取って、皆と同じように楽しめるよう手伝ってあげる」
ロキの瞳はぎらぎらと輝き、全身が燃えるようだ
その身は決して埋まることのない渇望に酷く焦がされていた
ホズはヤドリギの小枝をしっかりと掴み、ロキの導きに従って狙いをつける
ホズが従ったのは何故だったか、ロキを駆り立てる衝動は何故なのか
その枝が手を離れたとき、より力を篭めたのは、誰だったのか...
ヤドリギは見事バルドルに命中し、射抜き、刺し貫いた
光の神は倒れ、息絶えた
その瞬間、物音はなく、ただ静寂だけが当たりを支配していた
神々は倒れた者を見つめた。しばらくしてお互いを見つめ合った
それから矢の飛んできた方向 --- ホズとロキの方を見つめた
誰がバルドルの死をもたらしたかは、明白だった
しかし誰もが動かず、復讐を遂げることはなかった
そこは清められた空間で、誰も血を流すことは望まなかったからだ
だから、神々はただ見つめた。ホズとロキの2人を
ロキは、その視線に耐えられなかった
ホズは、その視線を見ることができなかった
ロキは逃げ出し、闇の中に消えた
悲しみに耐えかねて、一人の女神が泣き出した
悲しみは伝播し、堰を切ったように嗚咽と慟哭が木霊する
オーディンもそこに居て、全てを見ていた
彼は最も深く、苦しく、嘆き悲しんでいたが
同時にこの事実がかつてない最大の不幸であり、
やがて黄昏に至る莫大な損失と悲しみを生むということを
誰よりも深く正確に理解してもいた
最初に口を切ったのは、フリッグだった
彼女は言った
「ヘルまでの長い道のりを旅し、ヘルと交渉してくれる者はいませんか?」
「誰か、ヘルに身代金を出してくれる者は? 彼を再び帰してくれる者は?」
誰もがその大胆さを賞賛するヘルモードが進み出た
「私が喜んで行ってきましょう」
ニブルヘイムは、広い
彼の旅は、長い、長いものになった
ヘルの館に辿り着き、謁見までの長い間
ヘルモードは死者たちの干渉にじっと耐え続けた
そうしてようやく謁見が叶ったとき、交渉が始まった
ヘルに神々の深い悲しみを伝え、アースガルド中が涙していると伝えた
心配と愛情を篭め、丁寧に誠実に言葉を組み立てて
バルドルを連れ帰ることに同意してくれないか、と頼み込む
ニブルヘルの統治者であるヘルは、しばらく考えていたが、
条件を出すことで合意した
「九つの世界のあらゆるものが、死者と生者に関わりなく、
全てが嘆き、悲しみ、バルドルのために涙するのなら、
彼をアースガルドに連れ帰ることを認めましょう」
しかし、こうも言った
「もし一人でも悲しむものが居ないなら、認めるわけにはいきません」
もちろん、ありとあらゆるものが泣いた
以前、すべての生物・物質が誓いを立てたように
火も水も大地も動物も神々も、あらゆる存在が涙した
しかし全てではなかった
洞穴に座っていた一人の女巨人だけは、
いくら頼み込もうと、感情に訴えようと、祈っても嘆願しても、
彼女は決して泣いてはくれなかった
かくして、バルドルの復活は成らず
ひとつだけ。唯一泣かなかった女巨人がロキであるということは
誰もが理解していたし、一人として疑う者はいなかった
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