環境は人を造るか?

Sunday, Sep 18, 2005 - 16:52 +09:00

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性善説によれば、人は社会的動物であるが故に同族の悲しみを看過することができず、また他人を慈しむ心を持っているとされる。人間は本来的には善であり、無垢な人間は同族に対して害意を持つことなどありえないと考える。これを説いたのは孟子。性善説の立場からすれば、人の行動に含まれる悪性は生来のものではなく、成長する段階で後天的に誰かから「学んだ」ものである、となります。

性悪説によれば、人間の天性は悪だが後天的努力によって矯正できる、とされる。即ち「孔子ですら生まれてから聖人だったわけではなく、学問を修めることによって聖人となれた」となる。これを説いたのは荀子。学問による矯正を重視し、法による強制とは違う。つまり荀子は、教育の重要性を説きたかった。

性悪説は性善説に反して唱えられたものだけど、前提が違うだけで、その手段・目的とするところは同じです。人が善なる方向へ向かうために教育の重要性を説いている。両説を支持するに当たって単純な善悪二元論に陥ってはなりません。 ...さて、両説が共通して述べている点がもうひとつあります。それは、「人間は社会的動物である」ということ。

人は社会的動物であるが故に、その性質は善にも悪にもなりうる。人の天性は不可分であり、遺伝や環境や様々な偶発的事象によって「結果的に」形作られていくのが個人の人格である。 ...そのように、Sig.は考えます。ですから、たまに短い人生を振り返ってみて「こういうことがあったから、こういう風に考えるようになったのかな?」などと思いを馳せたりします。

「人間は社会的動物である」と述べたのはアリストテレスですが、こと教育学において他者との関係性に着目したものとしては、ルソーが有名でしょう。「他者と」というよりは「外界と」というべきかもしれません。ルソーにとって教育とは、子供が生来持っている能力を開花させることであって、そのためには大人があれこれ指導すべきではない、とします。人間が自然に成長していく力を重視し、故に自然から何かを学び取ろうとする子供の行動を、極力阻害しないように努めることを強調します。有名な言葉「自然に帰れ」とは、この辺からきているのですね。

ルソーの思想はカントも支持するところですが、デューイは批判しています。ルソーの論でいうと、自然の教育と、事物の教育と、人間の教育とがバラバラに作用するかのように説いているのですが、これは違うと。デューイは、これら3つが互いに共同して動いていると考えました。とはいえ、どの論でも人間が「成熟していく力」を根底においていることは同じ。教育学において、遺伝と教育と環境との関係性は常に中心課題だったと言えるでしょう。

さて、まとめましょう。教育... というか人間の人格形成において教育が重要だと説いたのが孟子・荀子。環境を重視したのがルソー。教育と環境は不可分だ(生活教育の重視)としたのがデューイです。ここで遺伝は出てきませんが、どの教育も持って生まれたものを「伸ばす」ことに重点を置いていることに注目しましょう。生来持っているものはどうしようもなく、それをどう活かすかが教育の主題というわけです。

ま~遺伝については「よ~わからん」ってのが現状の認識らしい。子供を観察して判るもんでもないし、大人の観察では環境の影響を否定しきれない。「子は親に似る」ってのは単に親と子の環境とか接し方が似てるからかもしれないし、どんな人間にでも何かしら似通った部分はあるものです。生き別れの兄弟とか、双子の研究とかが注目されるようだけど、そういうエッジ・ケースから有意な統計が取れるかどうかも疑問です。

Sig.はもともと環境説を支持してました。でもこの歳になると「あ~親父と同じことやってる」と落ち込むことも多いです。ま~こういう話題は過去を振り返る分には良いんですが、現状の自分をどうするかってのは個人の意志の問題です。あんま考えすぎると単なる言い訳になっちゃいますね^^;

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